長谷川光志
レアンカルナシオン
更新日:2021年7月14日
これは間違いだ、ということは間違いがなかった。
「わたしはどこかで道を間違えたんだ。」とはっきり彼女は思った。ただ過去のどの場面で、どの選択を謝ったのかはすぐにはわからなかった。
数えきれない選択のすべてを《正解》で数珠つなぎにしたような、私が歩むべき理想のコースがあって、それをあるとき一歩踏み外したのだ。その一歩がどれだけ致命的であるかを思い知った。
踏み違えたポイントを起点にして、あとはどれだけ地図の示す通りに進もうが、元の道に戻ることが不可能であるどころか進めば進んだ分だけ離れていってしまうのだから、理想と現実の食い違いが生むギャップとはまさしく冗談の過ぎる喜劇であり、まぎれもない悲劇でもあるのだった。これはなにかの罰なのかもしれないと思った。ただ何に対しての罰なのかはわからなかった。
彼女は自分を情けなくて頼りない存在だと痛感した。同時にそんな自分が愛おしくてしかたなかった。真面目で嘘が嫌いで頑固者で、しかしいつもどこか抜けている自分。そのごまかしようがない欠陥が愛おしかった。彼女にとって欠陥とは、独特なデザインゆえに万人には勧められないけれど一度ハマればたまらなく好きになってしまう、でも身につけたら簡単には外すことができないアクセサリーみたいなものだった。
彼女が今いる場所は、彼女はいるべき場所ではないと思っていた。ふさわしい場所がどこなのかはわからなかったが、ここでないことだけは知っていた。だからいつでも他人と違う重力で生きているような、違う文化圏を生きているような感じで、空気が薄いのか呼吸が浅いのか、たまに意識的に深呼吸をしなければならず、常にすこし目眩がした。
そして最後には必ずひとりになってしまう自分を、やっぱり愛していた。
他人と違うということが他人よりも劣っているように感じられて苦しいこともあったけれど、他人よりも優れているとは思えない性格もお気に入りのポイントだった。そしてそれは少し正しい気がした。違和感だらけの日常はそれなりに刺激的で、その違和感をきっかけに小さな詩を書くことが好きだった。推敲を重ねた詩は最終的に、お決まりの便箋に清書をする。袖机の引き出しにはたくさんの詩が詰まっていたけれど、彼女にはまだそれを読ませる相手がいなかった。
趣味といえば古本屋で売り切りの一番安い棚に散らばるたくさんの本の中から、自分が好きだと思えるものを探し出すことで、それは有名な作家でなくてもよかった。大切なのは自分が心から良いと思えることだった。
嘘をつくことが大嫌いだった彼女は他人の嘘も許すことができず、でもどういうわけか周りには平気で嘘をつける人間ばかりが集まっている気がして、なぜ自分はこういう人ばかり寄せ付けてしまうのだろうと思った。百歩譲って嘘つきは許せても、絶対に許せないのは「陰口」だった。さっきまでへらへら笑って会話していた相手がいなくなった途端、その人の悪口を言い合い盛り上がる集団を見るたび、「わたしはひとりでいい」と強く思うのだ。ひとりでいいと開き直った心は、ある意味ではとても強いけれど、それはとても儚い強さであると彼女自身うすうす気づいていた。
このままでもいいし、まるきり違う自分にもなりたかった。それは未来のいつかの時点で成し遂げたい夢のようでもあり、朝起きたら忘れてしまう夢のようでもあった。とらえどころのないその感情は「願望」とカテゴライズするだけの力強さに欠けていた。思いは自分が生み出したものなのに、この指でつかまえることさえできないなんて。世の中にあるどんな理不尽よりも、自分の内側で起こっていることのほうがよっぽど馬鹿馬鹿しくて、理不尽だ。この歪みを抱えて生きていくんだと思うと、本当に気が遠くなった。
《わたしの中に、マグマがある。》
どろどろに溶けて、ぶくぶくと吹き上がって、いずれわたし自身を食い尽くしかねないマグマがここにある。それなのに、側からみればわたしは健康的で、それなりに幸せそうな女に見えるだろう。恐ろしい。焦りが、不安がこの皮膚を割いてくれたらいいのに。この悲しみが痣になって一生残ればいいのに。わたしがあなたと違うことが、一目見てすぐにわかればいいのに。
決して正しいと思えない真っ暗なその道を、彼女は自ら照らして歩くしかなかった。そして、また思う。 「わたしはどこかで道を間違えた」と。
《そのとき》はやがて訪れる。
引き寄せるのか、たどり着くのか。
生まれ変わるとはどういうことなのか。
それが《気がつく》ということならば、彼女はすでに、いつでも、まったく新しい生まれたばかりの彼女であった。日々生まれ変わりながら、ずっと《そのとき》を待っていた。生まれ変わった彼女は、昨日までと変われずにいる自分に気づいた彼女だった。
いつの日か、あの音楽に出会える。
その瞬間の彼女の目の輝きがここにありありと思い浮かぶ。内なるマグマをたぎらせた、あの日のままの彼女が立っている。