長谷川光志
縛〜ことばについての考察〜
ものごころついたときには水木しげるの熱烈なファンだったこともあって、成長するとともに自然な流れで安倍晴明なんかにも興味をもっていくのだけど、名前をつけたりことばを手段にコミュニケーションすることじたい、実は「呪(しゅ)」をかけるってことなんだと実感することがある。
文字というのは蜘蛛の糸で、というか蜘蛛の巣みたいなもので「がんばれ」と言えばがんばれの糸で相手をからめるし、「愛している」も同じことで、それが気持ちいいかどうかはその関係性の中で決まる。
ぼくらにあらかじめつけられた「名前」というのはその最たるもので、たとえばぼくはこの世界にでてくる前から「お前は"光志"なんだ」という呪に縛られていたことになる。そんなこと考えても考えなくても生きていけるけれど、この名前と向き合って生きるということは人生のひとつの大きな柱のような気もしてくる。
こころには際限がないけれど、たとえば歌をつくることひとつをとっても、言葉をつむげば世界は狭まっていく。絞っていくといってもいいんだけど、つまりはなにか明確に伝えたいことにフォーカスしていくことだ。それは狙いにもなりうるし、単純に音とこころがあらかじめもっていた可能性を小さくしていくことにもなりうる。絞っていくことが良い作用をうむ場合もあるし、広がることがつまらない場合もある。だからこそ、言葉を使う人はとても悩む。考える考える悩む悩む。そして見つけていく。
最近この、ことばが相手を縛るということを考えていて、ぼくらに与えられたいちばん身近な手段が、ぼくらにとっていちばんやっかいなものであると身につまされる。解放したいがための言葉で、相手をがんじがらめにしてしまうことがある。気づかぬうちに。
ひるがえって、じぶんのこととして気をつけたい。
芸術が魂を解放させるものならば、なおさらそんなふうに使いたいとは思わない。どんなに重ねても、それがあなたのこころを解き放つほうに向かっていくものに、軽くなるようなものにしなければ。